白百合会について1

名前の由来

 

白百合会の名前の由来を語ろうと思えば、まず泉尾高校と先代の菊伊都美津江の話から始めなければなりません。
昭和十二年、大阪府立泉尾高等女学校の邦楽科講師として、菊原琴治先生が任ぜられ先代菊伊都美津江が共に講師を務めました。
その後、泉尾高等女学校は泉尾高等学校となり、邦楽クラブと名前を変えました。
名前は変わったものの、先代は、引き続き講師として三十七年まで務められました。
この間に邦楽を習得された方々が、現在も大阪の邦楽界に於いて多く活躍されております。
(余談ではありますが、二代目の菊伊都典江はここの十四期生です。)
白百合会という名称は学校の校章が白百合を象っていて、クラブの練習場の名称が白百合会館であったことから命名されました。
このクラブの練習場は剣道場の上にあったと聞いております。自宅のお稽古場もこれに因んで白百合会館と命名されております。
白百合会発足時には、故 古澤宣一 代五代目校長より
『 白百合の香こそ匂いて 琴の音の 調べゆたかに いく代松の勢 』
という記念の歌を贈っていただきました。

初代 菊伊都美津江

 

初代について語ろうと思いましたが、
故あって初代と一緒に暮らした時期というのは、3つか4つくらいの頃まででした。
ですから、覚えていることと言えば「おばあちゃん」と呼ぶと叱られて 「先生と呼びなさい」と言われたことくらいでしょうか?
私の筝の手ほどきの一番初めは初代でした。
又、小さい頃に手習いの曲として書いて頂いた楽譜は今でも残っています。
諸先生方から、小さい頃の私と先代のエピソードを何度となく聞かされては、
皆口々に「かわいがられてたんよ」と仰られます。
そして必ずと言っていい程「初代の芸は素晴らしかった」と付け加えられます。
それがわかる年になって生で聞けないということが、とても残念です。
初代のエピソードを追善の時に書いていただいたものを下記に転載いたします。

「― さて今私の想い出を一寸申して故人の人柄を偲び度いと思います。
美津江さんは、最初私の祖父菊植検校の芸統の人に師事し、
後に私の父の直門として いつも私と一緒に勉強させて貰って居りました。
手前みそ、になりますが、当時地歌三絃として名を知られてゐた祖父や父の芸統をふまえての
美津江さんの三絃は、 流石にその音色、撥さばき、はじき、等、実に優れてゐました。
私は羨ましく思う計りでした。 後年作曲も遺し本日の演奏に加えられて居りますが、
又舞踊の会にもよく一緒の舞台を持ち、或時舞方の希望により 曲中の1部分を増やす事になって
楽屋で即座に覚え、そのまま本番の舞台に出て弾くうちに、
ふと私の唄のふしが、 あやしくなりつつも、何とかまとめ終り舞台を下りました。
其時美津江さんは、全く私の唄う通りついて来て呉れたので ミスはわからずにすみました。
私はその才智にお礼を云ひましたら、ケロリとして
「私は先生についてゆきました。どこ迄変えてゆかはるのやろうかと思うてましたらうまいことおさめはりましたナー」
と云ってくれました。 暗記の時代の話、現代に通用しない事ですが、此時に美津江さんの、
いわゆる玄人としての芸の力を 有難いものに感じたことでした。 ―   菊原初子(原文のまま)」

「― ふりかえりみますれば、菊伊都先生は、菊原琴治大検校の薫陶を受け、
大阪地歌独特の芸風を正しく継承されて、七十年の生涯をこの道一筋に進んで
こられました。関西三曲界の重鎮として、また琴友会の大幹部として、さらに御自身の
主宰による白百合会を中心に後進の養成に意を注ぎ斯道の発展に大きな功績を
残されました。 菊伊都先生は、晩年には作曲活動もさかんで、すぐれた作品を沢山
創っておられますが特に古典地歌の三絃がすばらしく、NHKの放送にも古典曲で
永い間、貢献して頂きました。あれはお亡くなりになる少し前だったでしょうか
〝 芥子の花〝の録音をお願いした時でした。録音の前日に不慮の事故で
右手を怪我され包帯のお姿も痛々しくスタジオへお越しになりました。
〝 放送日まで日がありますので延期しましょう〝と申しあげたのですが、
〝ご迷惑をおかけすることは出来ません〝とおっしゃって演奏して下さいました。
その折の三絃の冴えた音色、お怪我されたお手とは思えぬ撥さばきのあざやかさは
未だに忘れられません。 ―     駒井邦夫 (元NHKディレクター)」

 

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由加里(3歳)初舞台初代と

ちなみにTOPページの写真は初代が13歳の頃の写真だそうです。

 

- 菊伊都美津江 略歴 -

明治40年4月1日 大阪にて生誕
大正4年    大勾当 菊秋光師に師事
昭和4年    大検校 菊原琴治師に師事 筝、組歌、三絃、本手を修める
昭和7年    菊伊都の称号授く
昭和11年    筝曲音楽学校卒業
昭和12年    大勾当の職格授く
昭和12年より
昭和37年まで  大阪府立泉尾高等女学校邦楽科講師となる
昭和15年    当道音楽会評議員となる
昭和36年    大阪市民文化祭芸術賞受賞
昭和43年    大阪文化祭賞受賞
昭和47年    大阪文化祭賞受賞
歿年まで    社団法人当道音楽会理事 三曲協会理事として任務をつくす
昭和52年 5月16日 歿

 

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