江戸時代以前の箏
箏という楽器は奈良時代に唐から伝来したもので、
平安時代には雅楽の伴奏楽器の一つとして用いられていましたが
その他にも箏伴奏の歌曲も存在していたらしく、
この種の音楽が平家滅亡の際にその逃亡者達によって
北九州にもたらされたと考えられています。
九州の久留米の善導寺に『賢順』という僧がいて、
音楽の才能に恵まれており、この寺に伝わっていた雅楽や
寺院芸能を学ぶと共に、当時九州に存在していた箏の音楽、
さらに中国の琴楽(箏とはまた別の楽器)をも学び
これらを参考にして筑紫流箏曲を大成させました。
これが後に八橋検校に伝わるのです。
八橋検校による箏曲の樹立
江戸時代に入って、八橋検校が現れ
今日『箏曲』と呼ばれている音楽(俗箏)の基礎を築きました。
八橋検校は、三味線・胡弓に優れた人物で
特に三味線の名手として知られた人でしたが
賢順の弟子の『法水』から筑紫流箏曲を学び
これを改訂・編曲・増補して、組歌十三曲(箏伴奏の歌曲)と
段物三曲(お正月でもよく流れている「六段」・「八段」・「みだれ(十段)」)
を制定しました。また箏曲に用いられる最も基本的な調弦の
『平調子』を設定しました。この時点から箏曲は
盲人音楽家の専業となり、八橋検校の弟子達によって
庶民の間に普及していきます。
八橋検校が樹立した箏曲は、今日の生田流・山田流の直接の祖先になります。
生田流箏曲と山田流箏曲
・ 生田流箏曲
生田流箏曲は、『生田検校』が元禄八年、
当時生田検校が四十歳の時に関西でおこした箏曲です。
八橋検校の制定した組歌や段物を伝承した『北島検校』が
これに多少の改訂を加えて、その門弟の生田検校に伝えたと
考えられています。
八橋・北島の両検校は共に流派は唱えませんでしたが、
生田検校は「生田流」を唱えました。現在の生田流は
これ以降、関西で生じた多くの流派を統括した名称です。
生田検校出現以前の箏と三味線の合奏は
民謡や流行歌などで行われるに過ぎなかったのですが
生田検校は芸術音楽である三味線音楽の「地歌」に
箏を合奏させました。(地歌については別項に記載いたします)
八橋検校のような三味線・箏両方に堪能な名手であっても
箏曲と三味線音楽の地歌とは別種の音楽として扱っていました。
ですので、三味線組歌には箏の手付はされておりません。
地歌という三味線音楽で箏が合奏するには、
三味線に対応するような箏の技巧の拡張や種々の調弦の考案が
なされました。更には爪の改革・演奏の際の座り方なども工夫されました。
(爪の改革は北島検校によってすでになされていましたが
師の八橋検校に遠慮して未発表のまま、弟子の
生田検校に伝えたとも言われています。)
芸術音楽における箏と三味線の合奏は、以後関西において
次第に発展していきます。
・ 山田流箏曲
山田流箏曲は、山田検校が江戸でおこした箏曲です。
山田検校出現以前の江戸では、筑紫流箏曲や
三橋検校系の箏曲が行われていましたが、いずれも
普及するには至りませんでした。
江戸に箏曲の普及を図ろうとしたのが、
当道(箏曲・地歌などを専業とする盲人の団体)の
総検校であった『安村検校』でした。
安村検校は門弟の長谷富検校を江戸に派遣して
これを実現させようとしましたが、関西で育った箏曲は
江戸の人々には受け入れられず、一向にその普及は見られませんでした。
一方、長谷富検校に師事した医師の山田松黒は、
長谷富検校から学んだ箏曲を、
盲人の三田斗養一(後の山田検校)に伝授しました。
山田検校は師の山田松黒から学んだ箏曲が
江戸の人々の趣味に合わない事を知り、
江戸の浄瑠璃の河東節や謡曲を参考にして
語り物の色彩の強い、箏伴奏の歌曲を作曲しました。
また、楽器や爪の改革も行いました。
生田流が三味線音楽の地歌を基盤にして
器楽的発達を遂げたのに対して、山田流は
箏を主体とした歌本位の箏曲として発達することになります。
山田流の出現によって、箏曲界は
関西の生田流・関東の山田流の二大流派に分かれて
明治時代を迎えることになっていきます。
箏曲のルネッサンス
幕末に入って、光崎検校・吉沢検校により
箏曲のルネッサンスとも言うべき箏曲復興運動が起こります。
これは単なる復古思想ではなく、新しい箏曲の創造であり
近代箏曲の先端でもあります。
光崎検校は京都の人で、三味線本位ではない
箏本来の作曲を志し、箏のみの高低合奏曲「五段砧」を作曲しました。
更に八橋検校の精神にたちかえった上で
古い形式の中に新しい内容を盛り込んだ曲「秋風の曲」も作曲しました。
これは前半が段物の形式、後半が組み歌の形式になっています。
吉沢検校は名古屋の人で、光崎検校の影響を受けて
純箏曲の作曲を志し、
「千鳥の曲」「春の曲」「夏の曲」「秋の曲」「冬の曲」
(以上五曲を合わせて「古今組」と呼ぶ)を作曲しました。
歌伴奏の歌曲で、組歌の精神にたちかえりながらも
組唄の形式に束縛されない楽曲構成になっています。
明治以降の箏曲
明治四年、当道が廃止され盲人の特権は消滅しました。
これにより一時は箏曲界が混乱しましたが、
箏曲が一般に公開演奏・教授されることになりました。
また、関西の生田流が東京へ進出し、
関東の山田流が関西に紹介されました。
当時の欧化主義政策の影響を受け
高低合奏形態の作品や、半音を含まない調弦(陽旋法)の
作品も多く生まれました。
大正時代へ移ると、宮城道雄による「新日本音楽」が誕生し
邦楽の伝統を遵守しつつ邦楽に融合できるものを
洋楽の中に求めた作品が創造されました。
現在のお箏の曲の代名詞ともなっている『春の海』は
この代表的な作品です。
これにより箏曲は、狭い領域に閉じこもる事から開放され
現代日本音楽に見られる、幅広い音楽への道が開かれました。
別項にて、箏の系図を記載いたします。そちらも合わせて
ご覧になってみてください。